東京高等裁判所 昭和56年(ネ)661号 判決 1983年5月18日
昭和五六年(ネ)第五一二号事件控訴人
同第六六一号事件被控訴人(以下第一審原告という。) 渡辺金属工業株式会社
右代表者代表取締役 渡辺清司
右訴訟代理人弁護士 伊藤敬寿
昭和五六年(ネ)第五一二号事件被控訴人
同第六六一号事件控訴人(以下第一審被告という。) 東興商事株式会社
右代表者代表取締役 小川正明
<ほか一名>
右両名訴訟代理人弁護士 甲野太郎
同 澤本幸一
主文
一 第一審原告の控訴に基づき、原判決を次のとおり変更する。
第一審被告らは第一審原告に対し、各自金五四〇万円及びこれに対する昭和五二年五月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第一審原告の本件その余の請求を棄却する。
二 第一審被告らの控訴を棄却する。
三 訴訟費用は、第一、二審を通じ五分し、その一を第一審被告らの負担とし、その余を第一審原告の負担とする。
四 この判決は金銭支払を命じた部分にかぎり、仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
(第一審原告)
一 原判決を次のとおり変更する。
第一審被告らは連帯して第一審原告に対し金二九七八万二〇〇〇円及びこれに対する昭和五二年五月三〇日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 第一審被告らの控訴を棄却する。
三 訴訟費用は第一、二審とも第一審被告らの負担とする。
四 仮執行の宣言。
(第一審被告ら)
一 原判決中第一審被告ら敗訴の部分を取消す。
二 第一審原告の請求を棄却する。
三 第一審原告の控訴を棄却する。
四 訴訟費用は第一、二審とも第一審原告の負担とする。
第二当事者の主張及び証拠
当事者の主張及び証拠は、次のとおり付加、訂正するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
(原判決の訂正)
一 原判決二枚目裏三行目の「次の」を削除し、同一〇行目の「各建物」の次に「(以下「本件建物」という。)」を加える。
二 原判決五枚目裏六行目の「買換えによる」の前に、「租税特別措置法の適用に基づく」を加え、同一一行目末尾の「この」から原判決六枚目表三行目末尾まで、及び同七行目の「のであり、」から同一一行目末尾までを、それぞれ削除する。
三 原判決六枚目裏二、三行目の「、本件売買代金相当額の融資を申込むにあたり、その」を「融資を受ける都合上、同銀行にみせる」と改める。
四 原判決七枚目表一〇、一一行目の「昭和四七年一月以降一か月、同四八年二月以降二か月」を「昭和四八年一月以降二か月足らず、同昭和四九年二月以降一か月余」と改める。
五 原判決八枚目裏三行目末尾に、「ただし、請求の趣旨は、当初は、①金七〇〇〇万円の支払いと引換えに本件土地について開発行為許可申請手続をすること、②その許可があったときは、本件土地について農地法所定の転用届手続をすること、③右許可と届出受理があったときは、残代金一億五六九〇万円の支払と引換えに本件土地の所有権移転登記手続及び引渡をすること、というものであった。しかし、敗訴事件の進行中に第一審原告が本件土地の一部を他人に売渡し、残された土地の現況もかえられたため、第一審被告東興商事は、訴の変更をして、最終的には第一審原告の主張する請求の趣旨になったのである。」を加える。
六 原判決一〇枚目裏一行目末尾に、「本件覚書作成の経過からすれば、第一審被告らは、計画的に本件覚書に第一審原告代表者の署名指印をさせてこれを騙取したというべきであって、その署名指印をさせられた第一審原告に過失があったとはいえず、賠償額を過失相殺により減額されるいわれはない。」を加え、同三行目の「判決が確定した昭和五二年五月二九日」を「訴訟完結の時」と改める。
(当審における付加主張)
一 第一審原告
1 すでに主張したとおり、第一審被告らは、本件覚書によって本件土地の売買契約が成立したものでないことを知悉しながら、これが成立したものとして敗訴事件を提起遂行したのであるから故意によるものであることは明らかであり、仮に故意によるといえないとしても過失によるものというべきであって、このような犯罪を構成する疑いすらある訴訟の提起、遂行は、憲法の保障する裁判を受ける権利の範囲を逸脱するものであって、不法行為となることが明らかである。
2 第一審被告小川は、本件覚書作成当時、名義上は平取締役ではあったものの、事実上は第一審被告東興商事の代表者であり、本件覚書作成時までの第一審原告側との交渉も自ら担当して、本件覚書に第一審原告代表者の署名指印をさせたのであるから、本件覚書により売買契約が成立したものでないことを知悉していた筈であり(仮に、売買契約が成立したと信じたとしたら、そう信じたことに過失がある。)、それにもかかわらず本件覚書により右売買契約が成立したものとして、名義上も第一審被告東興商事の代表者に就任した後に、同被告を代表して敗訴事件を提起推進したのであるから、取締役がその職務を行うにつき悪意又は重大な過失があった場合に該当し、商法二六六条の三に基づく責任を免れない。仮に、そうはいえないとしても民法の規定による責を負うべきである。
3 最高裁判所昭和三九年一月二八日判決(民集一八巻一号一三六頁)の判示からも明らかなように、不法行為による損害には数理的に算定できない無形損害もあり、しかも、それは侵害行為の程度その他各般の情況により金銭的評価は可能であって、このような無形損害は法人についても生じうるのである。そして、第一審原告が第一審被告らの不法行為によって蒙った無形損害は、すでに述べた事情を総合すれば、三〇〇〇万円を下らないのである。
二 第一審被告ら
1 いわゆる不当訴訟と類型化される不法行為における過失の範囲は、憲法三二条に基づく裁判を受ける権利との関係から、より制限的に判断されるべきであり、第一審被告らは本件覚書により本件土地の売買契約が成立したと信じたから、その成立を否定して履行に応じない第一審原告を相手方として公的機関たる裁判所の判断をあおぐべく、その売買契約の履行を求める敗訴事件を提起したものであって、第一審被告らに不法行為の故意過失はなかった。
2 なお、訴の提起が不当訴訟になるか否か、とくに過失の有無は、もっぱら訴提起当時を基準として判断すべきであり、本件においても、当初第一審被告らは売買契約の成立を信じ、第一審原告に対してその履行を求めて訴を提起したところ、第一審原告が本件土地の一部を他に譲渡したため、前記のように請求の趣旨を変更したものであり、右訴提起が不当訴訟になるか否かは、訴提起当初の請求をその当時の事実を基準にして判断すべきである。
3 第一審原告は敗訴事件の係属中に本件土地を本件覚書による売買価額を上まわる額で他に譲渡しているから、第一審被告らの敗訴事件提起によって何らの損害をも蒙らなかったというべきである。
(当審で取調べた証拠)《省略》
理由
一 請求原因1・2の事実(敗訴事件の提起、その敗訴判決の確定、敗訴事件の請求の趣旨とその原因)は、いずれも当事者間に争いがない。
二 そこで、第一審被告東興商事の敗訴事件提起、遂行が不当訴訟であり、第一審被告らがこれについて不法行為を理由とする損害賠償責任を負うかどうかについて判断するが、《証拠省略》によれば、第一審被告東興商事は本件覚書の作成により、第一審原告との間で本件土地の売買契約が成立したとして、その履行を求めて敗訴事件を提起したものであることが認められるから、本件覚書作成により、あるいはその作成時に、本件土地の売買契約が成立したかどうか、その成立が認められないとすれば、敗訴事件提起時に第一審被告らはその不成立であることを知っていたかどうか、これを知らなかったとしても、知らなかったことに過失があったかどうかについて検討する。
1 請求原因3(一)の事実(本件覚書の作成、その記載内容)は当事者間に争いがない。
2 《証拠省略》を総合すると次の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
(一) 本件覚書作成日(昭和四六年六月二二日)までの経緯
(1) 第一審被告東興商事は、第一審被告小川が実質上代表する会社であり、有力企業などの依頼を受けて大規模な土地の買収をすることを主な事業としていたが、昭和四六年一月ころ牛乳石鹸株式会社から埼玉県戸田市方面の二〇〇〇坪以上の工場建築用地の買付依頼をうけ、数人の不動産仲介業者に適地の情報提供を依頼していたところ、同年三月ころ、株式会社中央土地の代表者林京一から、七七七二平方メートル(約二三五五坪)の本件土地の存在を知らされ、これを適地と判断して、是非購入して、牛乳石鹸に売却したいと思うに至った。
(2) 本件土地は、第一審原告が昭和三六年二月ステンレス加工工場(東京都板橋区所在)の移転用地として取得した農地であり、昭和四六年三月当時、工場移転必至となっていたが、いまだその移転計画は具体化していなかった。
(3) 第一審被告東興商事は、第一審原告の主力取引銀行がどこであるかを調査し、それが第一勧業銀行志村支店であると判明すると、第一審被告小川において同銀行本店勤務の友人の協力を得て、同支店貸付課長に同被告が課長の友人であるかのような紹介状を作成してもらい、同年四月上旬ころ、営業部長尾崎隆をして第一審原告の許に右紹介状を持参させて、本件土地買受の希望を伝えさせた。
(4) 一方、林京一も同月中旬ごろ、第一審原告方を訪問し、第一審被告東興商事が本件土地を是非とも買受けたいと希望していることを伝えたが、それまでは全く売却の意思のなかった第一審原告も、代替地が見つかれば売ることを考えてもよいとの意向を示すようになったため、林は代替地を物色し、同年五月上旬、下旬の二回にわたりその候補地に第一審原告代表者らを案内したが、それらはいずれも第一審原告の希望条件に全くあわない土地であった。
(5) 林京一は、右二回目の代替地案内の帰途、第一審原告代表者らに対し浦和市内の第一審被告小川の別宅(第一審被告東興商事の営業所をかねている。)に立寄ることを強く勧誘し、右別宅で第一審被告小川と第一審原告代表者を引合せたが、その際、同被告が本件土地全部を買いたいと申入れたのに対し、第一審原告側は、その半分ならともかく全部売ることは難しいこと、いずれにしろ租税負担が軽くなる方法がなければ売ることはできないことを表明し、その間売買代金額にまで話が及んだものの、それ以上には進展しなかった。しかし、第一審被告らの要望で、林京一は引続き代替地を探すことになった。
(6) 第一審原告は、本件土地を是非とも売らなければならない情況ではなかったので、第一審被告東興商事の買受け希望に対しても、税負担を軽くする方法があれば売ることを考えてもよいというのが基本方針であり、どんな方法をとれば租税特別措置適用の要件を充足することができるかについて検討をすすめ、同年六月はじめ、顧問税理士にも相談したが、その方法として考えられる法人税法五〇条、あるいは租税特別措置法六五条の六(当時。現在は同条の七)の適用要件を備えることは、本件土地全部の売却を前提とするかぎり困難であろうとの一応の回答をえた。ところが、第一審原告は、同月一〇日ころ、林を通じて第一審被告東興商事から、実質は全部売買であるが形式上は本件土地の半分の売買とし、残りの半分は当面、売買代金に相当するような保証金を授受して賃貸借をした形をとることにより、租税負担を軽くすることができそうなので、検討してほしいとの連絡をうけ、直ちに顧問税理士を通じ、所轄税務署に相談したところ、同月一五日ころまでに、そのような形式をとっても全部の売買と認定されて課税される可能性が強いとの回答をえた。
(二) 本件覚書作成時の事情
(1) 第一審原告代表者は、同月二二日朝、林京一から、第一審被告小川の前記別宅に同被告の知人である国税庁の係官が来ることになっており、同係官から本件土地売買をした場合の賦課される税金についての説明がきけるし、また第一審被告の取引銀行である埼玉銀行の行員もくるので同行員に本件土地売買の交渉経過を知ってもらうこともできるから、ぜひ来てくれ、との連絡をうけ、第一審原告としては、税金についての説明をきくつもりで、弟の専務取締役渡辺四郎とともに、同日午前一一時ころ、右別宅を訪問した。
(2) 一方、第一審被告東興商事側は、第一審被告小川と前記尾崎隆とが右別宅に在席したほか、顧問弁護士甲野太郎を「売買契約をつめるから来てくれ。」といって、測量士福永学を「農地売買における開発行為許可に関して説明してもらいたい。」といって、それぞれあらかじめ呼びよせていたが、国税庁係官及び銀行員は当初から来る予定になっていなかった。
(3) その場で、第一審被告小川は再び本件土地全部を売ってくれるよう申入れたところ、当初、全部を売ることは難しいとの態度を維持していた第一審原告代表者も、税負担を軽くする方法があること、代替地がみつかることが売買契約締結の前提要件であるとの態度をかえたわけではなかったが、次第に本件土地売買に積極的となり、福永学から開発行為許可制度などの説明を受けたりして、第一審被告小川との間で本件土地を売渡す方向での話合いが進み、坪単価を一〇万円にすることなど売買契約をする場合の大綱について合意し、今後売買契約成立に向けて双方協力して進めるべき段取りについても協議したが、第一審被告小川は、何とか売買契約締結の方向が具体化してきた同日の話合いの結果を文書にまとめておくことを希望し、第一審原告に対し、真実は取引銀行に見せる必要はないのに、買受資金の融資を受けるため、取引銀行に交渉経過を明らかにする必要があるので、話合いの結果をまとめた文書を作成したいと申入れ、右話合いに立会った甲野弁護士にその日話合われた内容を「覚書」との表題のもとにまとめてもらい、これを清書して二〇円の収入印紙を貼付して第一審原告代表者の署名押印を求めたところ、右代表者は、この日文書を作成することなど全く予想せず、印鑑を所持していなかったため、署名のもとに指印し、一方、第一審被告小川も第一審被告東興商事取締役の肩書を付して、これに署名し、個人の印鑑を押印した。
(三) 本件覚書作成後、敗訴事件提起までの経緯
(1) 第一審原告は、本件覚書作成の翌日、それに記載されたような内容の売買契約を締結するとすれば、その場合に賦課される税の関係について顧問税理士に相談し、同税理士から、そのような内容では全部売買と認定されて課税されることは必至であるから、売買契約と賃貸借契約とを全く別個の契約としてそれぞれ締結した方がよいとの助言を得て、同年七月九日、右税理士に作成させた各契約書案を持参して、前記小川別宅で、第一審被告小川や甲野弁護士に対し、右契約書案のような形式、内容のものであれば売買契約を締結したいと申入れたが、第一審被告東興商事側はこれに応ぜず、話合いがつかなかった。
(2) 第一審原告は、その後も、本件覚書にそった売買契約によっても租税特別措置の適用などにより税負担を軽くする余地があるかどうか検討を続けたが、その余地はないとの結論に達したため、同月末ころ、顧問税理士に作成させたその旨の意見書をそえて、第一審被告東興商事に対し、本件土地を売ることはできないとの意思を伝えた。
(3) ところが、第一審被告東興商事側は、同年八月二日ころ、甲野弁護士を代理人として、内容証明郵便をもって、第一審原告に対し、本件覚書により本件土地の売買契約が成立したとして、その履行を求めるとともに、もし回答がなければ法的措置をとる旨の催告をし、これに対し、第一審原告側は、同年九月三日、中田長四郎弁護士を代理人として、第一審原告は第一審被告東興商事の買受申込みを拒絶しており、売買契約は成立しておらず、本件覚書は、ただ売買交渉の経過を同被告の取引銀行に示すために作成したものにすぎない旨の回答をし、その後、甲野弁護士が中田弁護士と接渉し、本件土地を契約書の文面のみならず実際にも二度に分けて売買することにしてはどうかとの提案をしたが、第一審原告側から拒否された。
(4) そこで、同年九月一八日、当時名義上も代表取締役となっていた第一審被告小川は、第一審被告東興商事を代表して、甲野弁護士に対し、本件覚書により本件土地の売買契約が成立したとの前提で第一審原告に対しその履行を求める民事訴訟を提起することを委任し、同月二九日、甲野弁護士は第一審被告東興商事を代理して、東京地方裁判所に対し、「第一審原告は第一審被告東興商事に対し、本件土地について① 七〇〇〇万円と引換えに都市計画法に基づく開発行為許可申請を、② ①の許可があったときは、農地法に基づく転用届出手続を、③ ①の許可と②の届出受理があったときは、一億五六九〇万円と引換えに所有権移転登記手続と各土地引渡を、それぞれせよ。」との請求の趣旨で、敗訴事件を提起した。
(四) その他の事情
(1) 第一審原告は、本件覚書に基づく売買契約が成立したとすれば、租税特別措置の適用のないかぎり、売買代金額二億二六九〇万円の過半に達する一億一九〇〇万円余の租税(地方税を含む。)を負担しなければならなかった。
(2) 第一審原告は、その後昭和四七、八年に本件土地のうち約三一〇〇平方メートルを第三者に売却し、その譲渡益をもって残地上に工場を建てて、昭和四九年ころ、ここに移転したが、租税特別措置の適用により、右売買の税負担を軽くすることができた。
3 右2(二)(3)で認定したとおり、本件覚書は売買契約書ではなく、その日に本件土地を売買する方向で話合いがなされ、大筋において合意に達した事項を交渉経過を明確にしておく趣旨で文書化したものにすぎず、右作成時に本件土地の売買契約は成立していなかったとみるべきであって、このことは、右1・2判示の各事実、とりわけ、右文書があえて契約書ではなく覚書と題されていること(なお、敗訴事件訴訟における証人甲野太郎の速記録によれば、右甲野弁護士は右文書は契約書と表題を付することには疑問を感じて覚書としたことが認められる。)、その記載内容自体が高額の土地の売買契約の条項としては余りにも簡単にすぎ、かつ、内容的にも不確定な部分が多いこと、しかも弁護士の作成した契約書にしてはぎこちない表現がみられること、本件土地の公簿面積は七七七二平方メートルであるのに二八二平方メートルも少なく七四九〇平方メートル(二六六九坪)と誤記され、しかもその少ない地積を前提としてこれに坪単価を乗じた代金額が表示されたのに、右誤りが看過されていること、本件覚書作成時に手付その他何らの金銭授受もされていないこと、税金問題や代替地問題が未解決であるため第一審原告としてこの段階で本件土地を確定的に売却するだけの客観的条件が整備されていなかったこと、第一審原告は当日全く書面作成を予定せずそのため印鑑も持参してはいなかったこと、第一審被告東興商事側も、本件覚書に第一審原告代表者の指印を得ただけであえて実印その他の印鑑の押捺を求めていないことなどの事実によっても裏付けられるものということができる。そして、前判示2(一)、(二)の各事実を総合すると、本件覚書を作成し、第一審原告の署名、指印を求めた第一審被告小川の意図は、その当日、漸く本件土地全部の売買に向って積極的方向を打出した第一審原告の態度がくつがえることのないよう、後日の売買契約の成立を確実にすることにあったと推認することができる。《証拠省略》中には、「この覚書が両者間の真実の売買契約書であり、あとで作成することになっていた契約書は対税務署用の内容虚偽の契約書だけである。」などと述べる部分があり、これによれば、本件覚書が本件土地売買契約書であり、その作成時に右契約が成立したことになるが、前判示2(一)(二)の各認定事実に照らしても右供述部分は採用することができない。
4 以上によれば、第一審被告小川は第一審被告東興商事を代表して、本件覚書によっては本件土地売買契約が成立していないのに、これが成立したとしてその履行を求める敗訴事件を提起したことになるから、この訴訟の提起、遂行が第一審原告に対する不法行為になるかどうかについて、さらに検討する。
裁判を受ける権利は憲法上国民に与えられた基本的人権であるから、民事訴訟の提起、遂行が不法行為になるか否かの判断にあたっても、その判断が裁判を受ける権利を不当に制限する結果にならないように十分に配慮すべきであって、請求が認容されなかったことをもって直ちに訴提起に過失があったと推定することが不当であるのはもとより、たんに敗訴の可能性を認識していたことをもって訴提起に過失があったとすることも相当ではないが、請求に理由がないことを知りながらあえて訴を提起した場合や、あるいは、請求に理由がないことを容易に認識することができる立場にありながら、これを認識することなく訴を提起した場合においては、そのような故意、過失による、理由のない訴の提起、遂行は、相手方に対する不法行為を構成すると解すべきである。裁判を受ける権利もそれにより不当に他人に損害を与えることまでも許容するものではないことはもちろんであるから、このように解しても右権利を不当に制限するものということはできない。
このような見地から本件をみるに、前判示2の(一)の本件覚書作成日までの経緯、(二)の本件覚書作成時の事情、(三)の本件覚書作成後、敗訴事件提起までの経緯の各認定事実を総合すると、第一審被告小川は敗訴事件提起当時に本件覚書作成により本件売買契約が成立したものと信じていたとは到底認めがたく、むしろ第一審被告らとしては、本件覚書を作成してこれを基礎に本件土地の売買契約を成立させようとしたが、その後の交渉が進展しないまま第一審原告が売買契約をしない意思をかためたため、本件覚書によって売買契約が成立したものでないことを認識しながらその成立を主張するに至ったものと推認することができる。しかし、第一審被告ら主張のように、同人らが仮に本件覚書により本件土地の売買契約が成立したものと信じていたとしても、右2(一)(二)認定の事実、とくに、第一審原告側が売買の前提として重視していた税金問題の未解決であることを第一審被告ら側が十分知っていたことや、覚書作成時の第一審被告小川自身の言動などを考えると、同被告はすでに本件覚書作成によって売買契約が成立したものでないことを容易に知ることができ、しかも、右2(三)で認定した敗訴事件提起にいたるまでの交渉経緯の中でも、そのことを認識する機会は十分にあったというべきであり、したがって売買契約が成立したものと信じて敗訴事件を提起、遂行したことには過失があったことが明らかであり、右訴の提起、遂行は、第一審原告に対する不法行為を構成するというべきである。
5 そして、第一審被告小川は、自ら第一審原告との売買交渉にあたり、第一審被告東興商事を代表して敗訴事件を提起、遂行したのであるから、右不当訴訟について民法七〇九条による不法行為責任を負うものといわなければならない(第一審原告は、同被告の責任原因を第一次的には商法二六六条の三によるとの主張をするが、同条は取締役が会社に対する任務に違反して、ひいては第三者に損害を及ぼした場合の責任を規定したものであるから、本件においては同条の責任を問題にする余地はない。)。
また、第一審被告東興商事も、その代表者たる第一審被告小川がその職務の執行として行なった敗訴事件の提起、遂行という不法行為について、民法四四条一項による賠償責任を負わなければならないというべきである。
三 そこで、右不法行為によって第一審原告の蒙った損害について判断する。
1 弁護士費用
《証拠省略》によれば、第一審原告は、敗訴事件の応訴のために中田長四郎弁護士と訴訟委任契約をし、着手金として金五〇万円、その成功報酬として金六〇〇万円を支払い、本件訴訟提起のために伊藤敬寿弁護士と訴訟委任契約をし、着手金五〇万円を支払い、勝訴の場合の報酬として金二二〇万円の支払いを約したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そして、右各事件の目的物の価額、請求金額、その難易度、訴訟の経過、本件訴訟の結果など諸般の事情を勘案すると、右の弁護士費用のうち第一審被告らの不法行為と相当因果関係のある損害は、敗訴事件の弁護士費用のうち金三〇〇万円、本件訴訟の弁護士費用のうち金一二〇万円であると認めるのが相当である。
2 敗訴事件応訴のために要した諸経費
《証拠省略》によれば、第一審原告は甲野弁護士から売買契約の履行を求める前記催告のなされた後である昭和四六年八月三日から右事件確定後の昭和五二年七月ころまでの間に、右覚書についての紛争あるいは敗訴事件に関連して、交通費、駐車料、弁護士の接待や打合せのための飲食費、弁護士などへの贈答の費用として、合計金五八万二二三四円を出捐したことが認められるが、右のうち、第一審被告らの本件不法行為との相当因果関係を認めうる損害額としては二〇万円を限度とするのが相当である。
3 無形損害
民法七一〇条にいう、財産以外の損害とは、数理的に算定することができない、いわば無形の損害をいうのであり、精神的損害がその典型的なものであるが、無形の損害はそれにとどまるものではなく、とくに、精神的損害が考え難い法人については、不法行為によって蒙る営業上の障害その他の諸般の事情を考慮して、無形の損害を金銭的に評価して、加害者に賠償させることが社会観念上妥当である。
これを本件についてみるに、《証拠省略》によれば、本件土地は第一審原告の重要資産であり、また工場移転用地であったため、これについての引渡等を求める敗訴事件の係属は、第一審原告の取引先に対する信用の失墜につながり、また従業員の不安、動揺の原因ともなって、第一審原告の営業成績に少なからぬ悪影響を与え収益の低下を来たしたことが認められる。なお、《証拠省略》によれば、敗訴事件係属中に第一審原告代表者が胆石症などのため数か月入院したことが認められるが、その疾病が敗訴事件係属による心労に基づくものであるとの《証拠省略》は直ちに措信しがたく、他にこれが右心労によることを証するに足りる証拠はなく、また、右供述によれば、敗訴事件係属中に数人の熟練技術者が第一審原告から退職したことが認められるが、それが、敗訴事件の係属により第一審原告の経営の前途を悲観したためであるとの右供述部分は直ちに措信しがたく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
そこで、右認定事実に前判示2で認定した敗訴事件に至る経緯などの諸般の事情を勘案すると、本件不法行為により第一審被告らが第一審原告に対し賠償すべき無形損害額は、金一〇〇万円をもって相当と認める。
四1 第一審被告らは、敗訴事件が提起されるに至ったことについては、第一審原告にも過失があるとの主張をするから考えるに、なるほど、第一審原告代表者は本件覚書に署名指印したのであり、しかも、その覚書の記載には「土地を次の条項で売渡す。」などと、一見売買契約の成立を思わせるような表現もあること前判示のとおりであるが、他方第一審被告小川としても、自ら本件覚書作成に関与してその作成の事情を知悉していて、その記載文言だけから売買契約が成立したと判断するような立場にはなかったのであり、その他前判示の覚書作成の経緯に照らしても、本件覚書に署名指印したことをもって第一審原告の過失とすることはできないし、また、前判示のとおり、本件覚書作成後に第一審原告が売買契約の成立を前提とするような態度を第一審被告小川に示して、同被告の判断を誤らせたというような事情もないのであるから、第一審原告に敗訴事件が提起されるについて過失があったということはできない。
2 次に、第一審被告らは、第一審原告の本件損害賠償請求権は、敗訴事件が提起された昭和四六年九月二九日から三年を経過したため時効完成により消滅したと主張するが、本件不法行為は、右敗訴事件が敗訴判決確定の時まで、継続しており、右時効の起算点はその時というべきところ、《証拠省略》によれば、敗訴事件判決が確定したのは昭和五二年六月一四日以降であることが認められ、したがって、本訴提起の日である同年九月一二日にはまだ三年を経過していないことが明らかであるから、右主張は理由がない。
3 なお、第一審被告らは、第一審原告が敗訴事件係属中に本件土地を他人に譲渡して、利益をあげたから、本件不法行為による損害はないと主張するが、第一審原告が本件土地譲渡により利益をあげたか否かは、第一審原告が本件訴訟で主張している損害の発生、消滅とは無関係であり、また、それが損益相殺の対象となるものでもないから、右主張は失当である。
五 以上のとおり、第一審原告の本訴請求は、第一審被告らに対し、各自、損害賠償金五四〇万円及び本件不法行為後である昭和五二年五月三〇日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容しうるが、その余は理由がないから、これを棄却すべきである。
したがって、原判決は、これと異なる限度で失当であるから、第一審原告の控訴に基づき、原判決を主文第一項のとおり変更することとし、第一審被告らの控訴は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法九六条、八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 森綱郎 裁判官 片岡安夫 小林克巳)